榎本武揚
武揚は天保7年(1836年)、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に旗本・榎本武規の次男として生まれた。
武規(円兵衛)は、もとは箱田良助といい、備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の庄屋・細川園右衛門の次男であった。菅茶山の廉塾に学び、数学を得意としていた。文化6年(1809)11月、17歳の時、測量の旅の途上で同地を訪れ菅茶山を訪ねた伊能忠敬の弟子になり、伊能の二度の九州測量などにも同行している。内弟子筆頭として測量の指揮も任されるようになった。伊能の死後、文政5年(1822年)に幕臣(御家人)の榎本武由(武兵衛)の娘みつと持参金持ち込みの結婚をして、婿養子として武士の身分を得た。翌年から幕府天文方に出仕。弘化元年(1844年)には幕府御勘定万となって身分は旗本になった。
武揚は幼少の頃から昌平坂学問所で儒学と漢学を、ジョン万次郎の私塾で英語を学ぶ。万次郎の私塾では後に箱館戦争を共に戦い抜く大鳥圭介と出会っている。19歳の時、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加する。安政3年(1856年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んだ。
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